延岡市議会 2020-12-09 令和 2年第10回定例会(第3号12月 9日)
パブリックコメント後に少し改善されたのは東海線で、循環バスと和田越から樫山二丁目まで同じバス停なので、どこで乗り換えるかは市民の選択となっています。ただ、不具合な点は、道路の反対側のバス停に乗り換えることです。 公共交通網形成計画では、乗り継ぎのバス停として想定される地点は、市民が求めている利便性の改善、周辺施設、コンビニ等と連携した環境改善とされています。
パブリックコメント後に少し改善されたのは東海線で、循環バスと和田越から樫山二丁目まで同じバス停なので、どこで乗り換えるかは市民の選択となっています。ただ、不具合な点は、道路の反対側のバス停に乗り換えることです。 公共交通網形成計画では、乗り継ぎのバス停として想定される地点は、市民が求めている利便性の改善、周辺施設、コンビニ等と連携した環境改善とされています。
なかんずく、一番新しいのが西南戦争和田越ノ戦を語る戦争遺構、七月の頭に発表されました。これは元市の職員で消防長を務められた方がお出しになったんですが、驚きましたね。私もこの本をお読みいたしまして、現地を案内していただきました。 西南戦争といいますと、私たちはひっきょう、北川の西郷記念館を中心に考えるんですが、一番激戦地は和田越峠、それから、今広がってる稲葉崎の美田でございます。
無鹿町和田越団地内の道路整備についてお伺いいたします。 無鹿町和田越の団地の中心部を通る道路が、造成時からのままで私道であります。そのため、市道としての整備もできず、また下水道管の設置もできず、住民の方は非常に困っております。このままでは何も変わらず、将来も私道のままであります。何とか当局のお力をかしていただき、解決する方法はないのでしょうか。
本市には、西郷隆盛宿陣跡資料館を初めとして、国内最後の内戦地である和田越など多くのゆかりの地があり、北川町だけでなく、旧延岡市内や北浦町、北方町と市内全域に、西南戦争にまつわる史跡や史実が多く残されています。 本市において、西南戦争の資料は、平成二十六年に西南役会が発刊した「西南戦争と延岡」や、平成三年に旧北川町教育委員会が発刊した「西南戦争、戦跡を訪ねて」などがあります。
○六番(北林幹雄君) 関連でございますが、西郷隆盛が最後の陣頭指揮をとった場所が和田越の山頂のほうにあるわけでございますが、その場所はちょうど樫山から山縣有朋が西郷さんを目視したとも言われる場所でございます。そう考えますと、あの場所を見ますとちょっと樹木が茂っておりまして、樫山から見ようにも見えない状況にありますので、ぜひ樹木の伐採等を考えてはどうかと思いますが、御所見をお伺いします。
市長も西郷隆盛宿陣跡や和田越決戦の地は、西郷どんの放映とともに多くのお客様があると発言されております。私もそう思います。しかし、そのチャンスをいかに生かすかが大事ではないでしょうか。しかしながら、宿陣跡を確認すると、来られた観光客用の売店や市内に導く看板等何もございません。西郷隆盛宿陣跡から観光客を市内へ誘致する施策は考えておられるのかお示しください。
六月議会で、西南戦争和田越決戦場の碑の整備について質問いたしました。その結果、わかりやすい看板の設置を進めてまいりたいとのことで、案内看板、標柱等を考えていただいています。また、新規に、樫山町交差点とコスモス保育園跡地に政府軍の山縣有朋陸軍中将の陣頭指揮の地の案内看板、標柱を計画いただいています。ここは東海児童遊園の場所で、登り道も津波避難道として整備していただいたところであります。
私は西郷隆盛に関する質問を、平成二十五年十二月議会で、西郷隆盛銅像建立について最初に行い、以降、平成二十六年度九月議会では、西郷隆盛宿陣跡資料館と和田越決戦場の整備、鹿児島市からの観光客の取り組み等と質問してまいりました。そんな中、平成三十年のNHK大河ドラマに西郷どんが決定したということで、今後、ドラマの舞台として話題を呼ぶことが期待されます。
それでは次に、西南戦争和田越決戦場の碑周辺の樹木の伐採についてお伺いいたします。 来年の大河ドラマに、林真理子氏原作の西郷どんが決まり、本市も西郷隆盛宿陣跡資料館の整備、御陵参考地の整備等、観光施設の整備が行われております。 西南戦争最後の激戦地和田越に建立された石碑、西南戦争和田越決戦の地は、今から二十五年前の平成四年に建てられました。
本市は、西郷隆盛宿陣跡資料館を初め、西南戦争に関係した宿陣跡や和田越など史跡が多く存在し、今回の大河ドラマ決定、西郷どんと延岡との出会いは今しかない。千載一遇のチャンスと捉えるべきだと思います。 ことしの大河ドラマで真田丸の舞台となった長野県上田市を会派で視察いたしました。
先日、和田越慰霊碑や西郷隆盛宿陣跡について、再度、観光の観点から確認してまいりました。多くの議員が質問されましたが、西郷隆盛宿陣跡、そして和田越慰霊碑も、駐車場の問題や案内看板等、まだまだ整備がなされていないようでございます。 そこでお聞きいたします。 高速道路開通に伴う、この施設に対する観光施策について御教示ください。 次に、南部地域の観光施策についてお聞きいたします。
以前、鹿児島市との交流を熱望していました髙木議員の思いを引き継ぎ、無鹿町にあります和田越決戦の地慰霊碑の整備について質問いたします。 この和田越の地は、一八七七年(明治十年)八月十五日、日本最後の内戦、西南戦争で薩軍の総大将・西郷隆盛が初めて陣頭指揮をとった場所です。官軍五万人の兵を率いるのは、樫山の山に陣を張った山縣有朋中将、それに対して薩軍は三千五百人。
延岡市には、西郷隆盛宿陣跡や西郷さんが最前線に立たれたことで有名な和田越の合戦の慰霊碑がございます。延岡市での西郷さんの宝は、軍隊を解散した場所であります。私は自衛官でしたので、この苦しみは、よくわかります。赤十字を活用した場所でございます。
観光で言えば観光部長だと思いますが、文化遺産で言ったときに教育長、この西南の役の和田越と西郷隆盛の延岡での価値観、観光として売り出す強みというのを何か御存じでしたら、ちょっと意地悪な質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。 ○教育長(町田訓久君) お答えいたします。
だめ出しをされるたびに「西郷隆盛は全国区なのに、延岡市は、西南の役の最後の激戦地が北川じゃねぇして、和田越ちいうこつを知らんちゃねーとか」と、へこむ自分と「めげるな。五回言うちだめなら十回、十回言うちだめなら百回言やいっちゃが」と押し返す自分がいました。 しかし、この間、少しずつではありますが、西郷隆盛も西南の役も議会で語られるようになり、延岡に存在感を持ってまいりました。
御存じのように、西南の役で薩摩軍と官軍の最後の激戦地となったのが、和田越決戦場であります。西郷隆盛率いる薩摩軍三千人は、山縣有朋中将指揮する官軍、約五万人に決戦を臨みましたが、物量ともにまさる官軍の攻撃には耐えられず、北方方面に敗走していきました。 その西南戦争で、唯一、西郷隆盛が陣頭指揮をとったのが、この和田越の決戦場であります。
取材してくれると思いますよ」これから、和田越の西南の役記念碑に行かれるとのことで、そこで別れました。 改訂作業中の観光振興ビジョンでの可愛御陵と西南の役・西郷さんの立ち位置は、選択と集中で、隅へ追いやられているのではないでしょうか。今回の改訂での、延岡の観光振興ビジョンの目玉は何でしょうか、御教示ください。 次に、都市計画の推進についてお伺いいたします。
今回廃止する路線は、開発行為による和田越一二号線の一路線で、総延長二十八・一メートルであります。 また、議案第一四号は、市道の路線認定であります。 今回認定する路線は、路線整備による宇和田大峡線など四路線と、道路用地寄附による粟野名二〇号線など四路線の合わせて八路線、総延長六千百六・四メートルであります。
御案内のとおり、和田越の決戦の地や宿陣跡資料館、そして可愛山稜などは、本市にとりましても貴重な歴史資源でございますので、今後とも、これらを活用した観光施策を関係者とともに行ってまいりたいと考えております。 以上でございます。 (降壇) 〔消防長(伊奈弘行君)登壇〕 ○消防長(伊奈弘行君) お答えいたします。 まず、消防団への救命胴衣の今後の整備計画についてのお尋ねでございます。
廃止いたします路線は、開発行為による和田越一二号線一路線、総延長二十八・一メートルでございます。 議案第一四号は、市道の路線認定でございます。 今回認定いたします路線は、路線整備による宇和田大峡線など四路線と、道路用地寄附による粟野名二〇号線など四路線の合わせて八路線、総延長六千百六・四メートルでございます。 以上が議案の概要でございます。よろしく御審議くださいますようお願い申し上げます。